冒頭
今作の導入は岸辺露伴がヴェネツィアを巡るところから始まります。
街中の路上で突如イタリア人に絡まれ、会話中にさりげなく財布をすられたところに『ヘブンズ・ドアー』をお披露目というお決まりの流れです。
実写版の決め台詞『今、心の扉は開かれる』を、舞台に合わせてイタリア語で言っていたのが格好良かったですね。
この場面で岸辺露伴っぽいなと感じたのは、財布を盗まれた事に対してはそんなに怒らず、自分の漫画をアートと同一視された事に1番腹を立てているところです。
「岸辺露伴の描く漫画はアートのようだ」
スリとしては標的の警戒心を解くための雑談でしかなかったのでしょうが、露伴からすれば聞き捨てならない侮辱な訳です。
「読者に読んでもらうために漫画を描いている。アートとして評価されるためじゃない」と。
富や名声に目もくれず、漫画家としてのプライド(もしくは自作の漫画)を何においても優先する。この清々しいほど一貫した価値感が良くも悪くもブレない所が、岸辺露伴の魅力なのかなあと何となく思いましたね。
スリを倒した露伴は次に仮面屋に向かい、店主の女性(マリア)から仮面の話を聞かされます。原作を知っている私としては「なんで懺悔室の映画で仮面なんや……?」と脳内がハテナで埋まる訳です。石仮面か?笑
原作は懺悔室に入った露伴が奇妙な告解を聞いて終わりですから、仮面が一体どう繋がっていくんだ?と。
もしかすると原作のタイトルだけ借りて中身は全然違うプロットなのかも?と身構えましたが、それは次のシーンで杞憂に終わりました。
懺悔室
続いて露伴が訪れたのは教会。間違えて神父側の懺悔室に入ってしまった露伴が、偶然にも同じタイミングで向かいの個室に入ってきた信者の男から奇妙な告解を聞かされる、というほぼ原作通りの展開です。
1つ違うのは男が奇妙な仮面を被っている部分ですね。原作にない画面要素がここでも出てきます。
とにかくこの場面は「キタキタキタ!」とワクワクしまくりでした笑
原作をどんな風に再現してくれるのか。やっぱり実写化はそこが醍醐味の1つですからね。
さて、男がまだ若かった頃の回想シーンに移ります。
不当な扱いで重労働をさせられていた日本人の男(後の『仮面の男』)は、仕事中に浮浪者から食事をねだられます。
食べ物を渡してあげますが、浮浪者が食べる直前になって取り上げてしまいました。
賃金とは労働者に支払われるもの。
働いた後に食事を渡すという条件で、体力のない浮浪者に重労働を押し付けます。
人の心ぉ……と思いましたが、男も男で休憩なしの労働を命じられていたのです。他の従業員は優雅にランチタイム。自分だけは働かされている理不尽な状況。対価もなしに食事だけ受け取ろうとする浮浪者の態度は相当鼻についた事でしょう。
しかしその結果として、体力のない浮浪者は階段から転落して死んでしまいました。
男は唖然とします。ところがその瞬間、目の前に浮浪者の怨霊が現れ「お前が幸せの絶頂に立った時に最大の絶望を与えに来る」と宣告されます。
なるほど。ここでさっきの食事を取り上げたシーンと繋がる訳ですね。
数日振りの食事を前にして幸せを噛み締めた浮浪者から、無慈悲に食事を取り上げる。
つまり幸せの絶頂に立った瞬間に浮浪者は絶望を与えられたという事です。
だから同じ苦しみを男にもぶつける、と。よほど悔しかったんでしょうね。
そしてそれ以来、男には幸運が押し寄せ、金はもちろん奥さんと娘にも恵まれます。
そんなある日、娘がポップコーンを投げて口に入れる様子を見ていた男は、その微笑ましさから思わず幸せを噛み締めてしまいます。
すると宣告通り、浮浪者の怨霊が娘の体に憑依して男の前に戻ってきました。
娘の舌先に浮浪者の輪郭が浮かび上ってくるシーンは中々のキモさ、いや奇妙さでしたね。
しかもハッキリ顔の描かれていた原作と違い、今作はストッキングを被って引っ張ったかのような顔面が少女の舌から生えてくる訳ですよ。
こんなん怖すぎる……。
男は当然ビビりまくりますが、自分が恨まれるのは筋違いだと訴えます。浮浪者が不幸だったのも死んだのも浮浪者自身に問題があったからだと。
強く出ましたねー。まあ共感はできます。浮浪者が死んだのは男のせいですが、それまでの不運は男と無関係ですからね。男だけに全ての責任がある訳ではないでしょう。
その指摘を受けて、浮浪者はどちらが正しいのか運命に決めてもらおうと、ある提案をします。
それは、男がポップコーンを投げて3回口でキャッチするというゲーム。
全て成功すれば浮浪者は運命を受け入れて立ち去り、1回でも失敗すれば男に最大の絶望が訪れる、と。
幸せの象徴であった『娘のポップコーン投げ』が、ここで一気に絶望のデスゲームへと変わるのが何とも皮肉でいいですねー。
ここから先の勝負が個人的に1番面白かったポイントです。
日光で見えなくなったポップコーンをギリギリで口に入れたり、寄ってくるハトの注意を別のポップコーンで引いたり、ハトが近づかないようポップコーンを燃やしたり、絵面は地味ですがもうとにかく必死です。
こういうジョジョのジャンケン小僧みたいなノリ好きなんですよね。日常にある何気ない遊びが自分の運命を左右する戦いに昇華していくといいますか。
一見くだらない状況に見えてもそこに全てを賭けるキャラクターの闘志は本物で、各々の駆け引きについ心惹かれてしまうんです。
しかも今作は大東駿介さん(日本人の男役)の熱演もあって期待以上に楽しめました。
しかしながら結局、男は3回目の『ポップコーン投げ』に失敗して死んでしまうのです。
では死んだはずの男がなぜ懺悔室で露伴と話せているのか。
『ヘブンズ・ドアー』で男の記憶を読んだ露伴は、真実を知ります。
実はこの男、整形手術で顔・声を自分の家の使用人と入れ替えて怨霊を騙していたというオチでした。
作戦はまんまと上手くいき、男の顔をした使用人は復讐の餌食となってしまいます。
しかし復讐の連鎖は終わりません。
今度はその使用人も男に絶望を与える怨霊と化してしまったのです。
男の大切にしている娘が幸せの絶頂に立った時、男に最大の絶望がやって来ると。
結局怨念の連鎖は終わらない訳です。
ここまでの経緯が男の語った罪なのですが、原作の頃から疑問だった事があります。
整形手術で騙せるって流石に怨霊がザルすぎないかなあ?と。
普通の人間相手なら出し抜けるかもしれませんが、好き勝手に幸運を操作して娘の体まで乗っ取った挙げ句、標的を容易く殺す力まで備えている怨霊がどうしてそんな対策に引っ掛かるのでしょう。
そこまで不思議な力が使えるなら整形手術くらいわかりそうなものでは……と感じてしまいますね。
もちろん野暮な指摘なのは自覚しています。
あくまで描きたいのは、運命・怪異に抗おうとする人間の足掻きだろうと。
だけど大抵こういう怪異系って、最終的には怪異攻略に物語が転がっていく傾向があるし、それなら怪異が具体的に何をどこまでできるか理解しておきたい気持ちが湧いてくるんです。
これが1時間のドラマなら『そんなもんだろう』で流せたかもしれません笑
まあでもそこはこの作品の語りたい所ではないでしょうし『そういうもの』として処理しておきます!
原作の続き
さて、ここまでが原作で描かれた物語。
次からは映画オリジナルの展開となっていきます。
先ほど登場した『仮面の男』の娘なのですが、実は彼女こそ序盤で出会った仮面屋の店主・マリアだと明かされます。
だからあんなに露伴と喋ってたのね。
彼女もまた父親同様に幸運に恵まれていました。彼女が仮面屋になったのは、幸福に頼らず自分の腕だけで仮面を作れるからだと。
ここには露伴も同じクリエイターとして共感していました。
私も趣味で小説を書いていますが、作品そのもののクオリティで評価してもらいたいという気持ちは理解できますね(もちろん運やその他の要因も重要ではありますが)。
そんなマリアは父親の教えで常に不幸を呼び寄せるアイテムを身につけ、1番欲しい物を避けるように生活していたようです。
『幸せは最大の絶望を連れて来る』と。
この着眼点いいですね。
幸せから逃げる、立ち向かうなんて発想がいかにもジョジョっぽくて面白い。
本当に原作にあったんじゃないかと疑ってしまうほどです。
父親の教えに従っていたマリアですが、実は結婚を控えており、じきに1番の幸福を手に入れてしまうようです。
それに黙っていられないのがマリア父です。
何とかマリアの結婚を阻止しようと画策しますが、彼の前に露伴が立ち塞がります。
クリエイターとしてマリアに情が移ったというのもあるのでしょうが、もっと大きな理由が別にあります。
実は『ヘブンズ・ドアー』でマリア父に触れた際、露伴には『幸福を呼び寄せる力』が移ってしまっていました。
そのおかげでオペラの当日券は手に入るし、マリア父の部下と偶然出会って『ヘブンズ・ドアー』で情報が手に入るし、遂には漫画の注文依頼が世界中で殺到していたのです。
露伴はこの漫画の部分にブチギレたんですね。
『自分の描く漫画に自分以外の力が入り込むのは許せない』と、地面に落ちた当たりの宝くじを何度も踏みながら怒声を発します。
これほど岸辺露伴が本気で戦うに値する理由もないでしょう。
露伴はマリアを『幸せの絶頂』に立たせて『幸福の呪い』を消すと宣言します。
つまり怨霊の思惑を達成させ、マリア父に最大の絶望を与えると告げている訳です。
マリア父は当然露伴と対立し、改めて結婚式をぶち壊す意志を次のように示します。
『無理です。無理無理無理無理無理無理無理』
ジョジョですね笑
もう『ジョジョの奇妙な冒険』ですこれは。
もちろんアニメのように激しく言い放つ感じではなく、静かにゆっくり連呼するような演技なので邦画として特に違和感はありませんでした(まあ現実にいたら確実に変な人ですが笑)。
決着
結婚式を成功させたい露伴と失敗させたいマリア父。
まず露伴はマリア父を欺くため、結婚式の予定を前日にズラしていました。
それを見抜いていたマリア父は既に部下に教会を襲わせようと命令を飛ばしていたみたいです。
しかし露伴は更に裏をかき、違う教会を指定していたようですね。
これにはマリア父も狼狽えた様子でしたが、割とすんなり教会を特定し乗り込んでしまいます。
すると先に教会に着いていた部下が拳銃で花婿に狙いを定めます。
ところがそれをマリアが庇った事で代わりに彼女が撃たれる羽目に。
マリア父は娘を失い、激しく絶望します。
そこに浮浪者と使用人の怨霊が現れ、この絶望こそ自分達の見たかったものだと嘲笑います。
使用人のように殺されはしなかったものの、娘を自分のせいで死なせたとあっては非常にショックです。
もう立ち直れないのではと危惧していましたが、なんとマリア父は無気力に立ち上がり『生きてる……生きてる……』と呟きながら教会の外へフラフラ去っていってしまいました。
ヤバいですね。娘が死んだのに自分が生きてる事に喜ぶって相当ねじれてます。
他人を犠牲にしてでも怨霊相手に生き延びてきた男だからこその歪みって感じでゾッとします。生への執着が半端ないです。
このままバッドエンドで終わると思いきや、マリア父がいなくなった直後に、撃たれたはずのマリアがあっさり起き上がります。
どうやら死んだふりで欺くまでが露伴の作戦だったようですね。
事前に行ったオペラの展開から着想を得て、『ヘブンズ・ドアー』でマリア父の部下に空砲を撃つよう書き込んでいたと。
なるほど。確かに『最大の絶望』=『死』と決まった訳ではありませんから、工夫次第で死者を出さずに呪いを解除する事もできるでしょう。
人の手で怨霊を騙せるのはマリア父の記憶で確認済みですからね。
改めて結婚式の続きを行おうとするマリアでしたが、『運悪く』指輪を落としてしまい花婿や神父と一緒に探す模様が描かれます。
大事な指輪が見つからないなんて確実に不幸な出来事なのですが、そこには楽しそうに笑うマリア達の姿がありました。
きちんとマリアが幸福から解放された証ですね。
幸運に嘆き不運に喜ぶ。
『原作:荒木飛呂彦』のエンドクレジットに恥じない奇妙で興味深い作品でした。
しかしながら終盤の展開は少し物足りなさを感じてしまいました……。
恐らく露伴が追い込まれる展開が少なかったのが原因だろうと思われます。
露伴も『幸せの呪い』にかかるという展開はいいのですが、それによって露伴が絶体絶命のピンチに陥る事はありませんでした。
もちろん自作の漫画が影響を受け続けるという最悪な事態にはなりましたが、それで露伴の生命が脅かされる事はないので緊張感が薄まります。
例えば露伴にもマリア父と同じように『幸せの絶頂に立った瞬間最大の絶望(死)を与えられる』というルールを付与してやれば、どちらが先に呪いを捨てられるかという緊張感に繋がるでしょう。
しかし自分の死に怯えるだけでは少し露伴味に欠けるので、『死の体験には興味あるけど自分が死ぬと漫画が描けなくなるので戦うしかない』くらいの心情で描けば多少はそれっぽくなるかもしれません。
なんか途中から感想というよりただの妄想になってしまいましたが、今作が楽しい仕上がりになっている事は間違いありません。
特に荒木飛呂彦先生のファンなら常時ニヤリとできると思います。
最後に露伴はこう締めくくります。
相手がどのような人間であれ、運命や呪いに抗う人間を尊敬すると。
この辺りに荒木飛呂彦先生の描く『人間讃歌』を感じますね。
ジョジョって主人公や仲間達が運命を乗り越えようとする場面が結構あるんですが、悪役達も同じように宿命とか因縁に立ち向かう瞬間があるんですよね。
善悪問わず、誰もが『覚悟』と『勇気』を持って試練に挑む過程にこそ人間の素晴らしさがあり、それは岸辺露伴はもちろんマリアやマリア父にも当てはまるのではないでしょうか。
プチ考察/解釈
なぜ露伴に呪いが移る展開を描いたのか。
恐らく、マリア父の選ぶべきだった『正しい姿』が露伴なのではないでしょうか。
同じ呪いを受けながらも、露伴とマリア父には違いがありました。
それは他人を殺したかどうかです。
結局のところ、この呪いは浮浪者を死なせてしまった事が発端です。それにも関わらずマリア父は更に使用人を犠牲にし、娘にまで呪いの範囲を広げています。最後には花婿を射殺しようとまでしていました。
他人を躊躇なく殺すマリア父に対して、露伴は誰も死なない手段で呪いの解除に成功しました。
マリア父に必要なのはこれだったのでしょう。
他人に配慮する。それさえできていれば、浮浪者に恨まれる事はなかったはずなので。
(まあ他人への配慮とか岸辺露伴に似合わない言葉すぎて違和感ありますが、一応他者への思いやりくらい持ち合わせている人なので笑)